自分が教育分野に関わりだして気づけば5年近くたってきました。初めの頃は「教育」という名のもと、教える側(多くが子ども達)へ今まで正しいとされてきた教え方や考え方に沿って指導してきました。
極端ですが、先生が白といえば白、黒といえば黒になるようなそんな教え方に近いかもしれません。
マニュアルがあり、それから少しでも外れるようなことがあれば強制的に修正する。。。
もちろん、自分自身小中高と、そのように教えられてきた立場から、あまり疑問に持たず真似する様に、そういった教え方をしてきた、いや、しかできなかった、と言えるかもしれません。
しかし、教育について様々なことを知っていくなかで、意見に耳を傾け尊重し、したい事を思いっきりさせる、子ども一人一人の特徴に合わせた教育を行う、といった教育方針があることも知りました。
特に最近は、100年変化がなかった日本教育の転換期ともいえるほど、今までの教育方針を変えていこう!といった話も多く上がっているように思います。
今までの一斉型授業は時代遅れ、これからは個々の長所を見つけ伸ばしていける教育でなければ世界についていけない。
この様な意見もよくSNSなどで見聞してきました。
もちろん、自分自身この様な意見には反対ではありませんが、少し気にかかることがあり、書いていきたいと思います。
「発酵」と「腐敗」
急に話は変わりますが、皆さん「発酵」と「腐敗」の違いをご存知ですか?
この二つはどちらとも微生物によって物質を変化させることで生じるのですが、どういった区別がされているのでしょう。
発酵とは納豆やヨーグルト、チーズなどに代表される体に良い健康的なイメージがある食品の事です。
一方、腐敗といえば、食べ物が文字通り腐ってしまっている状態で、食べると人体に悪影響がある事は誰もが知る事だと思います。
しかし、発酵と腐敗を区別するものは「人間に有益かどうか」という何とも都合のいい区別の仕方をしています。
食べても大丈夫であれば「発酵」、食べてダメなら「腐敗」・・・
この話を知った時に、人間のご都合主義というのか、物事は捉え方次第で変わるというのか、何ともモヤっとした感情を持ちました。
「教育」と「洗脳」
この「発酵」と「腐敗」の区別方法が、教育に関しても同様にいえるのでは?と思っています。
どういうことかといいますと、最たる例は、戦時中の教育に見ることが出来ると思います。
例えば、ナチス政権では、アーリア人を最上位とする教育を行っており、結果としてユダヤ人迫害などの悲劇を生みました。しかし、当時のナチスドイツで教育を受けた人々は、その教育方針や内容に疑問を持っていたのでしょうか?
推測ですが、おそらく誰も疑問を持たず、その教えを受け入れていたのではないでしょうか。(もちろん、異を唱えると逮捕、最悪処刑させることを考えると難しいですが…)
この様に戦時中での教育では、これから戦場に立つであろう子ども達に、戦争で負けないために、都合の良い思想を教えていました。いわゆる、洗脳教育と呼ばれるものです。
ここで、強調しておきたいことは、私は当時の教育方針を肯定しているわけではありません。ただ、当時はそれが必要であり正しいと思って行っていた、という事です。
つまり、当時はより良い国、より強い国にするための「教育」が、今では悪しき歴史の「洗脳」となっている。人間の都合で「教育」と「洗脳」の区別を作っている。
これが「発酵」と「腐敗」とまったく同じだと思ったのです。
第二次世界大戦では連合国側が勝利し、ナチスドイツのような国が二度と表れないようにとナチスドイツの「教育」を「洗脳」に変えました。
しかし、歴史にifはありませんが、もし枢軸国側が勝利していたら、逆に連合国側の「教育」が「洗脳」となっていたかもしれません。
ただ、勝利した側の都合によって。。。
先生の一言・子どもの一生
少し話が大きくなりすぎましたが、子どもに何かを教える立場としては、自分が気付かないうちに子どもを洗脳する可能性がある、ということです。
以前、確かTwitterだったと思いますが、以下のような内容の投稿を読んだことがあります。
小学校の頃の担任を受け持った生徒と、偶然会った。もう大学生になっているその元生徒は「先生が小学校の頃、ピアノが上手と褒めてくれたのを支えに、いまだにピアノを続けています!」と笑顔で話してきた。
私はその言葉を聞いてゾッとした。
一見、とても良い元担任と生徒の話のように思えます。自分自身、この投稿を見たときは、今のような立場ではなかったので、先生の一言がいまだにピアノを続けるきっかけになっているのか、いい話じゃないか。と
しかし、最後の”私はその言葉を聞いてゾッとした”から見れるように、この投稿者はいい話と思っていないようで、この一文がずっと気になっていました。
今、教育者として関わらせてもらい、「発酵」と「腐敗」、「教育」と「洗脳」の話を書いたように、ずっと気になっていた最後の一言の意味が分かった気がしました。
自分が発した一言が何年たってもその生徒に残っている、あえて悪く言えば「先生が褒めてくれたのだから、私はピアノが上手いはずなんだ」とピアノを続けるための理由として呪いのようになっていると、その先生は感じたのではないかと。
もしかしたら、その生徒はピアノではなく別の道を選んだ方が良かったのかもしれない。しかし、先生の一言でピアノの道を選んだ。その子の一生を決めるターニングポイントを意図せず作ってしまったのかもしれない。
もちろん、その生徒にとって先生の何気ない一言が支えになる事は悪いことではないです。が、先生にとってその何気ない一言が生徒の生き方を決めるほどの力があるということは、常に気に留めておくべきことだと思います。
他にも、「私は教育者になりたい!あの先生のように子ども達に教えたい!」と意気込む人は”教育者には向いていない”との意見も見たことがあります。
これも、その人が気付かないうちに自分の考え方や思考を無理強いしてしまうかもしれないから、との理由を述べていました。
しかし、ここまでくるとどんな人物が適切なのか分からなくなってきます。
ただ一つ言えることは、人に何かを教えるとき、特に子どもへ教えるときは「大人が発する言葉」が非常に強く長い間その子に残り続けるということは忘れてはいけない事だということです。
これから教育者としてどのようにすればよいのか
「教育」と「洗脳」が人の捉え方次第で変わるように、教育にかかわる人たちは、子どもへの言葉がけが非常に影響を与えることは、常に気を付けなければいけません。
しかし、だからといって恐れて何も言えない事も問題になります。
これから教育者として、どのように子ども達に接していけばいいのでしょうか。
この課題は一生考えながら見つけてていくことだとは思いますが、現状での私なりの考えは一つ
先生が主役ではなく、子どもが主役であるべき
ということです。
勉強でもなんでもそうですが、今までは「~をしなさい」といった言葉がけが多かったのではないでしょうか。(自分も子どもの頃はよく言われていました)
しかし、これからは「何をしたい?」や「どれをする?」と、なるべく子どもに選択させる言葉がけをするべきなのではないのでしょうか。
もちろん、これが絶対に正しいということは言えませんが、”誰かに言われたからした” のではなく、”自分で選んだからした” に変えていくことは必要になると思います。
教わる側の子ども達が主役であり、教える側の大人たちは支える立場になっていくべきだと考えます。
大人は経験という知識を持っています。それを使い、子どもが大きく道を外しそうなときには干渉していいと思います。しかし、小さなことは敢えて子ども自身に選ばせていくことが、その子のためになるのではないでしょうか。(この考え自体が押し付けとなり、今までの話と矛盾してしまいますが。。。)
これからも、教育者としてどのように子ども達と接していくのか、常に観察し、推測・類推し、学習していきたいと思います。
皆さんも是非一緒に考えてみませんか?